有人宇宙開発への道・その0

先日、私が期せずして有人宇宙開発について連発してツイートを発したのだが、その内容について鈴木一人先生が大変ていねいにブログにまとめて下さり、またコメントも付して下さった。私のやや暴走気味のツイートに対して本当にていねいな考察、ご意見をつけて下さったことに本当に感謝と敬意を申し上げたい。

ツイートそのものについては、鈴木先生のブログをご参照いただきたい(自分のツイートなのだが、取り出すのがなかなか大変なので)。
また、その一連のツイートの元になった、松浦晋也さんの日経ビジネスONLINEへの投稿「姿を現したインドの有人宇宙船」もぜひお読みいただきたい。松浦晋也さんの本稿脱稿のツイートが元になって、一連のツイートが始まっている(ただ、松浦さんご自身は関与していないので念のため)。

まず、私が有人宇宙開発に積極的な理由としては、以下のような点がある。

  •  人間を宇宙空間に送り込むことによる技術的な優位性
    科学的探査、あるいは将来予想される資源採掘などにおいても、現時点では機械的な無人による調査、行動などよりも、人間を利用した現地調査などの方が技術的、科学的な収穫という点で優位性が高い。とりわけ、月や火星など、あらかた無人探査が一巡しているような天体においては、より詳細な科学的な調査を行おうとすれば、有人という選択肢は必ず入ってくるものと考えている。人間が現地で判断し、動作を素早く切り替え、決定することができれば、無人探査では得られない、あるいは非常に時間とコストがかかる成果を得ることが期待できる。
  • 国家の技術的な優位としての有人輸送手段
    宇宙空間という、将来的に大きな経済的、国家戦略的な利益が得られる場所において、そこへのアクセス手段を自国において確保しておく、あるいは少なくともそのような技術を自国により確保しておくことは、将来、他の国による技術独占、アクセス手段独占、あるいはそれに伴う国家的な利益の減少を防ぐことにつながる。

もちろん、「次世代への刺激」や「技術の継続性の担保」といった部分もあるかも知れないが、私としては上記のような点となる。

以下、鈴木先生のブログを引用しながらコメントしていく。

むしろ、このツイートで気になるのはインドにも「抜かれた」という点で、個人的には有人宇宙事業で「抜かれた」としても特に問題はないどころか、拙著『宇宙開発と国際政治』で論じたとおり、限りある国の資源を経済的・科学的・軍事的価値の低い有人宇宙事業に他国が投入してくれるのはむしろ喜ばしく、どんどん抜いてくれ、と考えています。

ここの点はおそらく鈴木先生とは立場が合わない部分になるとは思うのだが、実際に有人宇宙開発が経済的・科学的・軍事的な価値が低いのかどうかという点については私はそうは思っていないというところである。
軍事については人間を宇宙空間に送り込むことによる軍事優位性というのが現時点ではまだ考えられないが、将来的には十分にありうると思われる。むしろ、現在の宇宙開発のルールが未整備で「やってしまった者勝ち」の世界であれば、どこかの国が宇宙空間を軍事利用のために使用する、あるいはそのために宇宙飛行士などを送り込むということは十分考えられることである。
科学的な面でいえば、上記で述べた通りで、いくら高度な機械、センサーを現地に投入したとしても、実際に物を触れない、プログラムされた動きしかできない無人探査では限界がある。いずれは有人による科学探査を検討する時期になってくるはずである。経済的な面については、このあとにさらに触れていくことにしよう。

寺薗先生のツイートがそういう意図なのかどうかは明示的ではないが、そういう議論であるとすれば、それは経済学でいう「サンクコスト」の概念で説明され るべきであろう。企業が失敗してきた事例として、過去の業績や成功に囚われ、不採算部門を切れずにそのまま続けることで会社が傾くといったことが見られる が、有人事業についても、過去にどれだけ投資したとか、どのくらい宇宙飛行士がいるからといった議論で有人事業を継続すべきだ、という議論は積極的に支持 できない。

このサンクコストの側面についてはよりデータが必要で、本当にどれだけのコストを日本がこれまでの有人宇宙開発で費やし、また現在費やしつつあるかという見積りが本来は必要なのであるが、今のところ私もそのような資料を持ち合わせていない。ただ、今の日本の有人宇宙開発が「不採算部門を切れずにそのまま続けることで会社が傾く」ほど不成功だとは私は思っていない。さらにいえばサンクコストだけでなく、国家保障や、次世代のフロンティアに進むための先達権などを確保するという意味で、コストにならない、あるいは現在かけるべきコストが存在することも考えられるわけで、一概にサンクコストだけをみて有人宇宙開発から撤退することは、次世代の技術の放棄にもつながる可能性があるであろう。

無人から有人に向かっているというのは果たして明らかなのだろうか。アメリカは国がやる有人から民間がやる有人に向かっているし、ロシアは過去の有人事業の遺産は維持しているが、新たなプロジェクトは無人が多い。中国、インド(+欧州) のトレンドだけを取り上げて「どの国も」や「世界の趨勢」というのは少し違う気はする。

世界の宇宙開発をみればアメリカ、ロシアは無人から有人へと着実に進めてきているし、中国、インドもそう進めてきている。ヨーロッパはというと、ロシア、中国などパートナーの力を得て独自の有人宇宙アクセス手段を保持しようとしているようである。またもちろん、ESAとしても宇宙飛行士を独自に養成しており、国際宇宙ステーションにも独自モジュールを確保しているほか、スペースシャトルなどによる飛行も行っている。この点ではやや日本と似た立場といえる。
宇宙開発というとこの6カ国(アメリカ、ロシア、ヨーロッパ、中国、インド、日本)が現在メインプレーヤーとなっており、結局そうなると世界の趨勢は「無人→有人のステップを着実に進めている」ということになるのではないだろうか。
なお、ロシアの新たなプロジェクトが無人が多いとはいっても、その宇宙開発のプロジェクトの大きな収入源が有人輸送費用(アメリカや日本などからの宇宙飛行士の輸送請負)であるという点は忘れてはならないだろう。

この点については強く反論せざるを得ない。これまで商業打ち上げで圧倒的なシェアを誇ってきたのは欧州のアリアンロケットであるが、欧州は有人宇宙船の技術を持っていない。世界で最も複雑で高度な有人技術を持っているアメリカのロケットも一時期商業打ち上げに参入していたが、顧客が全くつかず(だれもアメ リカのロケットで打ち上げようとせず)、商業市場から撤退した。ロシアのロケットは商業市場でも顧客を獲得しているが、それは技術が高いからではなく、価格が安いからである。つまり、有人技術があるかどうかは関係なく、価格と信頼性(実績)でロケットの選択は決まってくる。なので、有人技術がなくても、価格と信頼性のつり合いが取れれば人工衛星の打ち上げ受注は出来るし、有人技術の有無は無関係と言わざるを得ない。

たしかにこの部分はやや先走ったツイートだったかと思う。もっとも、有人宇宙開発技術で得られる高度な信頼性(無人に比べてはるかに高度な信頼性が要求される)が無人技術にもたらされれば、結果的にそれが技術的な信頼性に波及していくことは指摘しておきたい。

有人分野で抜かれることと、惑星探査(マンガルヤーンは火星探査)の分野で抜かれることは別次元の問題だと考えている。惑星探査の分野については、国際競 争の観点から考える必要もあるし、宇宙科学全体の中での資源配分など、様々な観点から論じるべきであると考えている。しかし、惑星探査の分野で抜かれるこ とと、有人分野で抜かれることは別の議論として論じる方が生産性が高いと思う。ただ単に「抜かれた」ということを起点として議論を起こすと、不毛な「宇宙競争」に突入し、貴重な人的・財政的資源を感情的な理由で振り向けてしまう可能性がある。それは避けたい。ゆえに「抜かれた」ということを起点に議論する のではなく、日本にとってどのように有人宇宙事業を考えるべきか、どのように惑星探査・宇宙科学を考えていくべきかについて論じるべきだと考えている。

一見すると確かに惑星探査と有人探査は別々のことのように思えるが、科学的な側面からの有人探査という点で考えればその点は決して別々ではない。例えば中国の場合では、嫦娥シリーズの無人機の打ち上げの後に、その実績を踏まえて有人月探査を実施しようとしている。それは資源確保かも知れないし、国威発揚かも知れないし、科学探査という側面もあるだろうが、無人探査と有人探査、(月・)惑星探査と有人探査は区別できない側面がある。とりわけ地球近傍(数百キロ)ではなく、月、火星、小惑星といった遠距離天体についていえば、この2つは切っても切れない関係にあるといえる。また、「抜かれる」という点に関してそれは別に構わないという感じで受け止められる部分もあるように思えるが、科学者としてナンバーワンデータが得られないということは非常にダメージが大きい。それは真っ先に人がいないところに行ってデータを得てくることである。もっとも、月や火星はもう科学的に十分なほどの無人機が行きデータを取得しているようにみえるが、科学者としてはそれではまだ足りない。
マンガルヤーンの場合、その「探査し尽くされた」火星にわざわざ赴くわけだが、そこで自国ならではの技術の確保(実際マンガルヤーンのいちばんの目的は深宇宙飛行技術の確保とされている)を行うことは、将来の科学探査、次のステップの前提であり、他の国がそれをやってしまっているときに何も手を打たないということは問題である。その技術を使って科学者がナンバーワンデータを得て科学的な成果を出せるということが重要であり、いくら科学データは世界共通、公開されるといっても、まずその国、あるいは参加した科学者が独占する期間があり、その間に参加した科学者が必死になって結果を出すからこそその国の科学技術が向上する。

ただ、このポイントは私も重要だと思う。

最後の一文はその通りだと考えている。有人をやるかやらないか、という議論を出発点にするのではなく、日本が宇宙開発で何をやり、どのように戦略的に存在感を発揮するべきか、という議論を出発点にして、そのために有人事業が必要かどうか、という議論にしていくべきだと考えている。

というより、ともかく議論の素地となるデータ、あるいは議論をする場所などが足りないのである。私もこうやって書きながらも、データを得ようとしてもなかなか得られない、あるいは得ようとすれば膨大なサーベイが必要になってしまう、という点で、1人の力の限界を感じているところである。

★★★

という形で、鈴木先生のブログへのお答えという形で書いてみたが、何よりも上述のように、データが足りない。私自身の素養も足りない。おそらくは時間も足りない。民間宇宙開発の急速な勃興や世界的な宇宙開発のトレンドの変化、とりわけ「ポストISS」へ向けた動きの状況によっては、この議論そのものが全く意味をなさなくなるようなことも起こりうるかも知れない。

いま日本が宇宙開発でなすべきこととしては、まず(有人にせよ無人にせよ)5年、10年、20年先を見据えた宇宙開発のビジョンを提示し、そこに向けて探査やインフラ整備などをどうしていくかを構想し、国がやるのか、民間がやるのか、あるいはやらないのか、といった議論を広く展開していくような場を作っていくことが必要だ。そして、その議論のための情報がわかりやすく用意され、容易にアクセスできるような環境にしていくことが必要かと思う。この練り上げられていない「バージョン0」ブログ記事も、そのためのきっかけになればせめてもの幸いである。

私自身の大変拙いツイートにお応え下さった鈴木先生に改めて感謝申し上げると共に、今回のやり取りを通して、宇宙開発に携わる人、宇宙開発を愛する人たちが、いろいろな形で「自分たちがやって行きたいこと」に声を上げて下さることを望む。

当たり前のことを

先日、私が朝必ず見ているBS1の海外ニュース報道番組で、尖閣諸島の問題を取り上げる機会があって、そこで専門家の方が、今後日本が取り組んでいくべき課題について解説していた。
尖閣の問題自体は私には範囲外でとてもそれには触れらないが、その「すべきこと」について取り上げられていた中に、「対外広報の強化」という側面があった。
その専門家の方によれば、「日本人は当たり前、当然だと思っていることは言わなくてもわかるという気持ちを持ちがちだが、それは国際社会では通用しない。どのような小さなことであってもしっかりと主張すると共に、それを対外的に発信していくことが必要だ。」とのことであった。
このこと、宇宙開発広報でも非常に重要だと思うので、私としてもこの件について少し書いておきたい。

当たり前のこと、というのは非常に難しい。日本人的な性格としては、わかっていることは改めて言わなくても、「あうんの呼吸」で通じる、あるいは「根回し」しておけばいいという風潮はあるかも知れない。
また、最近では、「そんなことは勉強して当たり前」というふうにいう人も多くなっている。私自身が属するIT分野などはその傾向が強いように見えるが、そうでなかったとしても、「ググレカス」のような言葉が出てくること自体、まずは調べろということが暗黙の了解(この時点で暗黙だ、というところもポイントだが)になっているようである。

しかし、わからない人というのは、そもそもどこから調べていいのかわからないのである。
ネットで検索して答えを見つけるというのは、簡単そうにみえて意外に難しい。
試しに、まったく何もわからない人に、この前のイプシロン打ち上げになぞらえて「固体ロケットと液体ロケットの差を調べろ!」と言ったとしよう。学校の授業だったら子供たちは必死になって調べて答えを見つけるかも知れないが、ふと思った疑問に大人が労力をつぎ込んで答えを出すだろうか?
いや、もちろんする人はするだろうが、私自身の感覚から言って多いとはいえない。

試しに、Googleで「固体ロケット 液体ロケット 違い」というキーワードで検索してみると、最初に出てくるのはJAXAの宇宙情報センターのページである。このページ自体非常によくできていて、私もよく活用するのだが、果たして一般の人に、推進剤とか、酸化剤といった言葉がすんなりと頭の中に入ってくるだろうか?
私たちは宇宙開発の業界にいるので、推進剤や酸化剤という言葉は当たり前に使うし、仲間同士でも別に疑問もなくそういう言葉をやり取りする。でも一般の人まではそうとはいえないだろう。

ここで思い出すのは、月探査情報ステーションのある出来事である。
それまで月探査情報ステーションでも、「一般の方になるべくわかりやすく」ということをモットーにしてページを作ってきたが、やはり、どうしても言葉、内容のギャップというものが存在した。私たちが当然と思っていることであっても、一般の人が知らないということが多かったのである。それを思い知らされたのは講演の席であった。
講演が終わったあと、ごく基本的な内容の質問…例えば、「月はなんで表をいつも向けているのですか?」とか…を受けたりする。これに対して、例えば「公転と自転の周期が一致しているからですよ」と答えたとして、果たしてその人は公転と自転という言葉がわかるだろうか?仮に知っていたとして、両方をイメージできるだろうか?

そういう疑問の中で作っていったページの中に、「今年の中秋の名月はいつですか?」というQ&Aコーナーがある。
私たちなら理科年表なり何なりをあたって調べるし、あるいはニュースでいうかも知れない。でも、理科年表の存在も知らず、ニュースもみていない人がいきなり「中秋の名月はいつ?」とネットで検索して、その答えを得ようとしたら…
私も当時、「そんな当たり前のことなんて検索して調べるんじゃないの?」と思っていたが、スタッフとも話したりしながら、ある意味「試しに」Q&Aにその項目を付け加えた。
今やこのQ&Aページ、中秋の名月に近い時期(ちょうど今頃)は日に3000ページビューを数えるほどの、サイト1の人気をかっさらうようになってしまっている。

自分にとっての当たり前は、人にとっての当たり前ではない。
であれば、どうすればいいのだろう?中秋の名月のQ&Aでもあったように、「そんなことみんな知ってるよ」という先入観を捨てて、まずはしっかりと記述していくことが必要なのだと思う。
それには、一般の(宇宙業界外からの)人からのインプットが重要である。メールを頂く、ツイッターでの反応を受け止めるというのもあるが、やはりいちばんいいのは、講演など、リアルな場所で会話することである。
そういう場所で受ける質問や反応は、本当に助かるし、私たちの目をはっと見開かせてくれるものが多い。「あ、こういうことがわからない元になっていたんだ」というようなことが必ずあるのである。
そういった点をていねいに解決していくことこそが、宇宙開発への障壁を下げていく広報、というより「対外活動」(アウトリーチ)の重要な側面になるのではないだろうか。

とはいえ、日々の更新に追われている現時点で、実は月探査情報ステーションにも自転や公転を解説した項目はない。
いつかこういうことをわかりやすく解説するページを、どこかに作らなければならないといけないな、と思っている。

当たり前のことを、しっかりと解説し、わかりやすく伝える。
実はいちばん難しいことでもあるのだが、だからこそ広報のプロとしてチャレンジしがいがあることでもあるだろう。まだまだ、挑戦は続く。

「3日」の問題

期待されていたロケット「イプシロン」、27日の打ち上げが発射前19秒で停止となって、ちょっと期待がしぼんでいる。私を含め多くの人がその瞬間を見守り、13時45分の「ゼロ」の声と共に何事も起こらなかったロケットに「?」と感じたことだろう。

おそらく機械的なトラブルが根本的な原因であり、近日中に問題が解決され打ち上げられることは間違いない。
ただ、私としては、打ち上げ後の広報対応に少し疑問があったので、書いておきたい。

それは、森田泰弘プロジェクトマネージャーの記者会見である。当日の記者会見では、まずJAXA理事長や宇宙開発担当大臣などの会見(15分くらいか)があり、その後森田プロマネが1人で記者会見に臨む「第2部」があった。
そのときの模様は、宇宙作家クラブの掲示板に記録されている。私が問題だと思ったのは、「3日」で打ち上げができるだろうという部分である。その記録から、問題の部分を引用してみよう。

日経新聞 スケジュール見通しについて。
森田 原因究明に半日、特定に半日、検証に1日。少なくとも二日間は時間をいただきたいと考える。現時点では最短3日後に打ち上げるということもありうる。

この言葉が元になって、各社の見出しに「イプシロン、3日後に打ち上げ」という言葉が出てくるようになった。例えば、

もちろん、3日後というのは最短であって、あくまでうまく行った場合だということはわかっている人は理解している。
しかし、メディアの記事はわかっている人ばかりが読むわけではない。見出しだけを読んでパッと知ろうという人も多い。特に数字はそうである。数字だけが独り歩きしていく怖さは、広報に携わった人なら誰もが経験しているだろう。

だからこそ、広報の現場では数字の扱いは慎重にしなければならない。私もそのように教わってきた。
森田プロマネの「最短で3日」というのは、実際のところまだ原因も何もわかっていない時点のことで、架空の数字でしかなかったはずである。そして実際、今日はJAXAも、打ち上げが9月まで延びることを発表している。

おそらくであるが、森田プロマネは、記者の質問に対し、ていねいに答えようとしたのだろう。また、誰もが新しい打ち上げ日を気にしている状況を知っていて、あえてサービスをしようとしたのかも知れない。

しかし、そのようなことは本来してはいけない。確実になっていないことを数字にしてしまうことは、あらぬ見通しを生む可能性を産んでしまう。例えば、3日後とあるから3日後にまた打ち上げをみにやってくる、という人だって出るかも知れない。時期は夏休みの終わり。最後の可能性と考えて宿や交通機関の予約を取ろうとする人もいるだろう。メディアだって3日という想定で準備をはじめるかも知れないし、実際そうしていたかも知れない。

メディアは数字を欲しがる。おそらくではあるが、その方がわかりやすいからだろう。わからないことというのは皆不安だから、数字になっていてしっかりと伝えられる方が安心するのかも知れない。
私も昨日、テレビ番組に出演してイプシロンの解説をしていたが、20秒前の搭載計算機の電源ONから19秒前の打ち上げ中止まで、わずか「1秒」という部分を強調するように指示が出ていた。実際には、電源ON→シーケンス停止は1秒以内であったと思われるし、おそらく打ち上げ前19.xxx秒というのが正確なところで、1秒という数字には意味はない。でも、メディアではその1秒というのを強調したがる。「すぐに」という言葉を「1秒で」といった方がわかりやすいということなのだろうか。

だから、数字を扱うときには気をつけなければならないし、裏付けのない数字は言ってはならないのである。でも、森田プロマネの記者会見の席には広報担当者はいなかった。森田プロマネが1人で担当していたのである。
広報担当者がいれば、その訂正・補足をすぐに行うこともできただろうし、あるいは事前ブリーフィングで数字の扱いに気をつけるように伝えることもできただろう。しかし結果的には「3日」が独り歩きしてしまった。

小さい問題かも知れない。わかっている人はわかっているから、問題はないだろうと思う人も多いだろう。でも、こういう小さいところに、いまのJAXAの広報体制、さらにいえばJAXAのゆるみ、みたいなものがないと断言できるだろうか。

さらにいえば、「はやぶさ」の成功以来、広報に甘えが生じていないだろうか。
かつて宇宙開発は、メディア報道としては逆風にさらされ続けてきた。成功しても取り上げられず、失敗すれば「税金の無駄遣い」「お粗末」「単純ミス」と見出しがつく。こちらがどのように細かい資料を配ってもほとんどみてもらえず、成功の何倍もの大きさの記事が失敗のときの紙面を飾ることになる。

確かに「はやぶさ」はそのムードを変えた。あれ以来、メディアは日本の宇宙開発を賞賛し、トップ技術を誇る日本の宝として大々的に宣伝し続けている。そして幸いにもこの3年間、ロケットや人工衛星の失敗は起きていない。
ただ、それはたまたま幸運だったからで、いつそのような事態が起きるかは予想できないのだ。私だって、2003年10月に、打ち上げたばかりの「みどりII」が突然通信を絶つなどということは想像もできなかった。困難は大体予想していないところで、突発的に、しかもいちばんひどい形で降ってくるのである。

失敗をすることもある。でもそれは次につなげていくためにどうしても必要なことであり、そのために国費をもって宇宙開発を続けている。このことを伝えていくために実に何年かかったことか。しかし、信頼というのは実際脆いものである。1回の失敗が世論のムードをガラリと変えるのである。
だからこそ、普段から広報も気を使い…緊張感をもって伝えていかなければならないのだ。それは細かい点にも及ぶし、細かい点だからこそ重要になるということもあるのだ。

いつまでもみんながJAXA、さらにいえば宇宙開発に味方してくれるわけではない。JAXAはそう思っておくべきである。広報担当者を誰もつけないままプロマネを記者会見の席上に座らせたのは、たまたまだったのかも知れないし、プロマネ1人で大丈夫という自信があったのかも知れない。しかし、「アリの一穴」から崩れていくのが信頼だとすれば、JAXAはもう一度、広報体制をしっかりと見直し、担当者全員の気持ちを引き締めていくことが必要だろう。それも、イプシロンの打ち上げまでに。